彼の人の眠りは、徐かに覺めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え壓するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて來るのを、覺えたのである。 した した した。耳に傳ふやうに來るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて來る。 折口信夫「死者の書」の冒頭はこうして始まる。この小説は歴史と幻想に綾どって創作されている。これを読んだ私の魂は、あたかもこの小説の主人公中将姫(南家郎女)のように、刑死者大津皇子(滋賀津彦)の亡魂に呼ばれて幻想に彷徨い、とうとう二上山に導かれてしまった。 さて、二上山を最初に訪れたのは、「死者の書」に出会って約1ヶ月後の2008年3月8日である。「死者の書」では彼岸の中日、つまり春分の日がキーデーとなっている。中将姫はある春分の日、二上山の雄岳・雌岳の間に太陽が沈む瞬間に、そこへ眠る大津皇子の幻を見る。春分の日を目前にしたこの旅で、私は、ちょうど夕日が二上山へ沈んでいくところに遭遇した。二上山を訪れる前日、近鉄奈良駅から大和八木へ向かう車窓である。 夕日を見、中将姫の心になりきった私は、翌朝、まず當麻寺へ向かった。ここには當麻曼荼羅にまつわる中将姫伝説がある。中将姫は、藤原四家の中で当時最も力のあった南家の藤原豊成の娘として生まれながら、継母に疎まれ、山へ捨てられるなど大変な苦労をした。16歳になると自ら望んで出家し、17歳のときに當麻曼荼羅を一晩のうちに織り上げ、29歳で西方浄土に召されたという。この姫の存在自体が架空かもしれないというのが歴史の面白さであるが、折口はこの伝説に想を得、全く違った動機で中将姫に曼荼羅を織らせている。恋に恋するお年頃である処女中将姫は、成仏できないでいる大津皇子の魂に導かれ、二上山の麓のこの當麻寺まで奈良から雨の中を徒歩で辿り着く。 春の山満身創痍の女を抱く あきこ 翌夜、天若御子と化した大津皇子が中将姫を訪れる・・・。 (十三章) つた つた つた。 又、ひたと止む。 この狹い廬の中を、何時まで歩く、跫音だらう。 つた。 郎女は刹那、思ひ出して帳臺の中で、身を固くした。次にわぢ/\と戦きが出て來た。 天若御子――。 ようべ、當麻語部嫗の聞した物語り。あゝ其お方の、來て窺ふ夜なのか。 (中略) 白い骨、譬へば白玉の竝んだ骨の指、其が何時までも目に殘つて居た。帷帳は元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでゐるやうな氣がする。 悲しさとも、懷しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行つた。山の端に立つた俤びとは、白々とした掌をあげて、姫をさし招いたと覺えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のやうに、からびて寂しく、目にうつる。 長い渚を歩いて行く。郎女の髮は、左から右から吹く風に、あちらへ靡き、こちらへ亂れする。浪はたゞ、足もとに寄せてゐる。渚と思うたのは、海の中道である。浪は兩方から打つて來る。どこまでも/\、海の道は續く。郎女の足は、砂を踏んでゐる。その砂すらも、段々水に掩はれて來る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と氣がつく。姫は身を屈めて、白玉を拾ふ。拾うても/\、玉は皆、掌に置くと、粉の如く碎けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾ひ續ける。玉は水隠れて、見えぬ樣になつて行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬はうとする。掬んでも/\、水のやうに手股から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶ/\竝んで見える。忙しく拾はうとする姫の俯いた背を越して、流れる浪が泡立つてとほる。 姫は――やつと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく、裳もない。抱き持つた等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。 ずん/\とさがつて行く。水底に水漬く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹の白い珊瑚の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であつた。玉藻が、深海のうねりのまゝに、搖れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。 きわどいシーンが美しい。夢から覚めた中将姫は、中日に二上山に見た俤びと、白玉の指を持つその人を恋慕うようになる。 其は黄金の髮である。髮の中から匂ひ出た莊嚴な顏。閉ぢた目が、憂ひを持つて、見おろして居る。あゝ肩・胸・顯はな肌。――冷え/″\とした白い肌。をゝ おいとほしい。(中略)おいとほしい。お寒からうに――。(十五章) 此機を織りあげて、はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい(十八章) 葬られている彼の人は着物も朽ちて寒かろう。彼の人を包む着物を作って差し上げたい、その一心で姫は曼荼羅を織り上げる(注:筆者の独断的解釈)。 當麻寺の門前通りは、他の観光地の寺ならば土産物屋になっていそうな建物が、今でも普通のしもた屋である。その不思議な時空間をまっすぐ行くと、美しい三重塔を擁する當麻寺に出る。そしてその向こうに二上山を望むことができる。大津皇子はその二上山に眠っている・・・。 うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む 大伯皇女 大津皇子は、天武天皇の第三皇子で、母は天智天皇の皇女大田皇女である。謀反を密告され24歳で処刑される。自分の生んだ草壁皇子を皇太子にと願う鵜野讃良皇后(持統天皇。大田皇女は同母姉)の意向があったとされている。先に挙げた歌は、仲の良かった姉大伯皇女が、大津皇子の墓移転の際に詠んだものであり、この地区の至るところで紹介されている。「死者の書」では、自分が二上山に葬られていることを、姉が墓の前で詠んだこの歌で知ることになっている。『懐風藻』によると、大津皇子は優れた詩人であるばかりでなく、身体逞しく容姿に優れ、学問を好み、漢籍の知識が深く、武芸を好んだ、人柄も闊達にして謙虚、という抜群の男性とされている。 「死者の書」においては、処刑される直前に目を合わせた藤原氏の娘、耳面刀自に未練を残し、その後裔である中将姫を招き寄せてしまう大津皇子だが、妻である山辺皇女が後を追って自刃している。また、万葉集には石川郎女との素敵な相聞歌が残されている。 あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに 大津皇子 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを 石川郎女 この世に様々な未練を残したまま処刑された大津皇子・・・。私は大津皇子の魂を慰めるべく、山道を歩いている。横を流れるせせらぎの音が心地よい。水のある山道はいいものだ。大津皇子に想いを馳せ、ここが二上山だと言い聞かせながら、この山道を歩く。 ふっと尾根に出た。そこは馬ノ背と呼ばれるところで、道が二手に分かれている。左が雌岳、右が雄岳へ向かう道である。一瞬迷ったが、まず低い方の雌岳(474m)へ登ることにする。 雌岳の山頂はきれいに整備された公園である。日時計があり、老夫婦や子供連れ、仲間で来ている人たちもいる。登ってきたままの向きの先には葛城山、その先が金剛山。後ろは信貴山。東は大和盆地、西は河内の平野を見下ろす。大和盆地は霞みの中にあり、その向こうに笠置山地の山々が浮かんでいる。 下萌えやふはりふはりと人の恋 あきこ さあ、大津皇子に逢いに行かねば。眺望のある雌岳で、持参のパンとりんごを食べ、雄岳(517m)との鞍部へ下りる。雄岳は眺望がなく、閑散としていた。神社があり、その横に樹で囲まれた小さいがひんやりとした異様な空間もあり、長居したい所ではない。木々の間から、金剛山を眺められるのがわずかな救いとなっている。 大津皇子の墓は頂上にはなく、ほんの少し下にある。鳥居があり、墓石があり、門が閉じられ、宮内庁管轄であることを示す看板がある。鳥居の向こうは鬱蒼とした樹々で小山のようになっており、小さな古墳のようでもある。 ここは河内と大和を見下ろせる場所。「死者の書」では、大津皇子の墓を二上山へ移すにあたり、鵜野讃良皇后に「罪人よ。吾子よ。吾子の為了せなんだ荒らび心で、吾子よりももつと、わるい猛び心を持つた者の、大和に來向ふのを、待ち押へ、塞へ防いで居ろ。」と言わせている。 両手を合わせた。縁あってここに来たことを想った。今では多くの人が二上山を訪れる。大津皇子ももう寂しくはないだろう。その御霊も慰められていることだろう。安心して成仏してください。と祈った。 満たされし恋も悲恋も山笑ふ あきこ 最初の訪問から5週間あまり後の4月13日。私は再び二上山を訪れた。そこは満開の桜で春が満ち溢れていた。きっと大津皇子も、心安らかに眠っているに違いない。 春満ちて死者も眠たくなりしとや あきこ 文・写真 四宮暁子
by basyou-ninin
| 2008-04-13 20:49
| 吟行
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