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谷中吟行

            谷中吟行     2008年2月16日(土)

月見寺
快晴に恵まれたこの日、JR日暮里駅北口に集合、月見寺とも呼ばれる長久山本行寺へ向かいました。
  
春探すやうのんびりと行く列車      四宮暁子
春光の谷中通りのせんべいや       山田紗也
鈴鳴らし歩く恋猫谷中かな         山田紗也
せんべいの香る小路や猫の恋      上河内岳夫
ダンサーのひと時春の光浴び       上河内岳夫
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春遅々と寺に花小屋門番所        平林恵子
ほつほつと真珠のごとき辛夷の芽     山田紗也

二十世日桓上人は俳号を一瓢といい、多くの俳人たちと交流をもっていました。そのなかに、小林一茶がいました。一茶はしばしば当寺を訪れ、文政6年(1824)には、「青い田の露をさかなやひとり酒」などの句を詠みました。

山門を入ると、竹の群生、白雲木などの樹木や草々の庭に、句碑が点在していました。
これは一茶と一瓢の句を並べた句碑です。
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                       「一茶留錫の處」

              刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原    一茶

              菜の花としりつゝのむやつるべから    一瓢

さらに、一茶の句碑もありました。
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                     陽炎や道潅どのの物見塚

一茶の碑名残り金柑二タ三粒       平林恵子 
猫の手のくるりと丸し枇杷の花       牧野洋子
紅梅の蕾やはらか猫のゐて        四宮暁子
観音の頬に日の差す春北風        上田禎子
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境内には紅梅が咲き始めていました。
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山頭火の句碑も春光を浴びて立っていました。
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                  ほつと月がある東京に来てゐる

朝倉彫塑館
月見寺から朝倉彫塑館へ真っ青な空のもと、谷中の街を歩きました。
朝倉彫塑館の木造部分は耐震強度基準に達していなかったとかで、残念ながら立入が制限されていました。洋館のアトリエ棟は従来どおり見学ができました。庭には白梅が咲き、春光に池の水が揺らめいていました。
朝倉文夫の彫像の数々、天上までの書棚をもつ書斎、朝陽の間、さらに風の吹き渡る屋上からの眺めを堪能しました。
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錻力やのブリキ冬日を溜めてをり      木佐梨乃 
頬杖は夢見るかたち風光る         長嶺千晶         
墓守の嗤ひに応へ春鴉            長嶺千晶
蔵書棚背文字に兆す春の色         長嶺千晶
うららかやブロンズの猫眠りをり       上河内岳夫
ブロンズの猫伸びをする春北風       武井伸子
歪みたる硝子の向かう梅の花        武井伸子       

入口脇には檀の実が残っていました。
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                                  (写真・四宮暁子)
彫刻の男見降ろす白椿            山田紗也
屋上に文夫の胸像鳥帰る          上田禎子        
彩墨の八仙ならび日脚伸ぶ         木佐梨乃
昭和初期女の裸体冬陽差す         木佐梨乃    
椿東風犬の塑像に手ずれ生れ       平林恵子
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子規庵
次なる吟行地は根岸の子規庵。細い路地に入ってからは、ぐるぐる迷いながら辿り着きました。途中、漱石が辿った子規庵への行程図の看板などをしげしげと眺めたり、路地散策を楽しみました。
木造平屋建ての子規庵は、ひっそりと建っていました。
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春小路明治のころに迷ひけり        四宮暁子
糸瓜なき春の子規庵訪ふてみる      四宮暁子
来てみれば子規の糸瓜は枯れてをり    岩淵喜代子
春浅しへちまの棚にへちまなし       牧野洋子

子規庵は、正岡子規が明治27(1894)年から移り住み、34歳11ヶ月で病死するまでの約8年間を過ごした住まい。 昭和20年4月の東京空襲で消失。しかし、弟子の寒川鼠骨などの尽力で昭和26年には、ほぼ原型どおりに復元されました。

糸瓜棚に糸瓜はありませんでしたが、縁側に枯糸瓜が置いてあり、振ってみるとからからと乾いた音がしました。庭には光と風が満ち、燦燦と差し込む日差しが、子規の座机に及んでいました。伸ばせなくなった左足を立てるために四角く刳り貫いた子規の机。左足を立てて子規と同じ格好をしてみたのでした。

以下は子規の自筆で、句碑に刻まれている規絶筆三句です。
   をとゝひのへちまの水もとらざりき
   糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
   痰一斗糸瓜の水も間にあはず

六畳は寝るによき部屋鳥帰る        岩淵喜代子
セーターに子規の日差しの重かりき    岩淵喜代子
子規の間へ届く日差やあたたかし     長嶺千晶     
陽炎の中に六畳一間かな          牧野洋子              
座机のくりぬかれてる春浅し         牧野洋子
春陽や子規庵といふ小宇宙         上河内岳夫

立て膝に句をひねりだす冬うらら      木佐理乃
子規のやうに膝立ててみる日永し      武井伸子
春光や終焉の間の半ばまで         武井伸子
如月のへちまの秀とは縷のごとし      平林恵子
枯へちま振れば中より春の音        上田禎子
春落葉子規の使ひし井戸に積む      上田禎子

羽二重団子
句会場は芋坂の羽二重団子でした。
数々の文学作品に登場し、子規も漱石も愛したという団子を味わいながらの句会となりました。
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それぞれに羽二重団子鳴雪忌        岩淵喜代子
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                    文・写真/武井伸子
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by basyou-ninin | 2008-02-23 02:51

蔵の町川越と麋塒の墓を尋ねて

     蔵の町川越と麋塒(びじ)の墓を尋ねる吟行    2007.5.16

埼玉県川越市の蔵町は、平日にもかかわらず、観光地としての賑わいをみせていました。
「小江戸」と呼ばれる川越の蔵造りの街並みは、類焼を防ぐための耐火建築で、江戸の町屋形式を踏襲しているといいます。
街並みは端整な美しさでした。
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落ちさうな蔵の二階や青柳      草深昌子
消火器が蔵のどこにも五月晴    草深昌子
蔵過ぎて札の辻なる薄暑か      草深昌子
薫風や白犬乗せし人力車       松浦健
十薬や大火いくたび蔵の街      松浦健
夏手袋咥えて脱ぎし蔵の町      尾崎じゅん木
新樹光蔵には蔵の匂ひして      武井伸子 
蔵の鍵外れしままに夏の蝶      武井伸子
軒深き小江戸の町の夏つばめ    望月遥 
川越や雲の峰めく鬼瓦         望月遥
蔵出しの金魚のいない金魚鉢    望月遥
藤の花揺れる小江戸に火灯窓    平林恵子

川越のシンボルともいうべき「時の鐘」。400年も前から、城下町に時を知らせてきました。
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桜の実聴きもらしたる時の鐘      望月遥
軒に吊る鐘は小さく青葉光      上田禎子
絵の具箱道にひろげし街薄暑    上田禎子
蔵格子遅日の時の鐘透ける     平林恵子
葛桜高さほどよき時の鐘       平林恵子                

高山麋塒の墓は、この街並みの外れ、本応寺(ほんのうじ)という寺にありました。
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高山伝衛門繁文、俳号麋塒は、谷村藩秋元家の国家老であり、芭蕉の門人。
諸説あるようですが、1682年(天和2年)師走、「八百屋お七」の振袖火事が江戸の町をおおったとき、芭蕉庵は消失。江戸を逃れた芭蕉は、甲斐の国谷村の門人、麋塒のもとにたどり着いたとされています。麋塒の屋敷の離れで、一冬を過ごし、その逗留は5ヶ月に及んだと。

麋塒の作品を以下にあげました。
これらの句は「武蔵曲」「虚栗」「続虚栗」「白根嶽」「一字幽蘭集」などに収められています。

人は寝て心ぞ夜を秋の昏
夜ル國の夢ぬ寝覚めや郭公
けふ花のかゝしと出ぬちぎれ雲
賣ルとうる山ノ路か夜ルの栗折竃
人消えて胡馬雪を鳴山路哉
胡草垣穂に木瓜もむ家かな
面洗ふ瀧の鏡などとては
雨花ヲ咲て枳穀の怒ル心あり
花を心地狸に酔る雪のくれ

山門をくぐって左手に、季節の花を供えた麋塒の墓がありました。
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棕櫚の花無縁の墓は塔をなす       望月遥
緑陰に麋塒といふ字をなぞりをる      武井伸子
初夏や鴟尾の金跳ぶ麋塒の寺       平林恵子
柿若葉風をたどれば麋塒の墓       岩淵喜代子
薔薇咲けば薔薇の芭蕉と薔薇の麋塒   岩淵喜代子
網戸して芭蕉と麋塒の世が赤し      岩淵喜代子
若葉風子を連れ祈る母の背に       上田禎子
麋塒の墓たづねたづねて夏木立      松浦健

初大師やだるま市で名高い喜多院へも足を伸ばしました。
境内の五百羅漢はさまざまな表情を見せ、人の喜怒哀楽を思わせ壮観でした。
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眉に蟻のせて羅漢の笑ふなり     長嶺千晶
五百羅漢拝す半ばの夕薄暑      平林恵子
羅の僧がひかりのやうに過ぐ     岩淵喜代子
踏むたびに沈む畳や南風       尾崎じゅん木
将軍の雪隠広し夏の鳥        上田禎子
竹の皮春日の局の化粧の間     尾崎じゅん木 
長持ちの黒光りして目借時      尾崎じゅん木

駄菓子屋が軒を並べる菓子屋横丁。
薔薇の盛りで、裏通りにも薔薇が咲き乱れていました。
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おほどかにひらめく蔵の夏暖簾             草深昌子 
雪の下少し戦げる芋菓子屋                草深昌子         
川越の火消装束夏燕                    武井伸子
紅ばらに白ばら咲ける小江戸かな            武井伸子
ボンネットバス曲がりゆく白つつじ            尾崎じゅん木
蔵町の裏の通りのバラの花               上田禎子
せりだして薄暑の町の小商ひ               望月遥 
せりだして薄暑の町の小商ひ               望月遥
芋菓子の亀屋にぎはふ更衣                松浦健
夕焼けや並べ売らるる蜻蛉玉               松浦健

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                    文・写真/武井伸子
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by basyou-ninin | 2007-05-16 11:00

愛宕神社 七草吟行

         愛宕神社 七草火焚き神事吟行   2007.1.7(日)

1月7日に七草粥を食べる風習は、現在の家庭にも残っているように思われます。
今年はじめての吟行は、港区愛宕神社での七草火焚き神事でした。
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神事が始まる前の境内には、こんなかわいい巫女さんがとことこと歩いていました。
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黄梅や八百八町の火伏神    禎子

あらたまの鯉の口より光りの泡    伸子


神前では祝詞に続き、その年の吉凶を占うという、国見の舞が披露されました。
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七草神事祝詞にまじる犬の声    健

ゆらゆらと国見の舞や初山河    健

神楽鈴振るや春立つ潮の香    恵子

国見する巫女の扇や冬木の芽    伸子


続いて、古くから民間に伝わるという「七草叩き」が行われました。
「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、なずな七草ストトントン」
という言葉を唱えながらの早乙女の神事です。
俎板の上に七草をのせ、すりこぎとしゃもじでストトントンと叩きます。
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薺打ち音のはじめは固かりし    喜代子

七草神事小さき椅子に座りをり    禎子

薺打つ千年の刻なきごとし    禎子

七草神事波のごとくに大太鼓    紀子


屋内での神事が終わると中庭には、正月飾り、願木、古いお札、だるまなどが小山をなして積まれ、お焚き上げが行われました。
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七草火焚き唐土の鳥は近づくな    健

お火焚の炎に隠れ老神主    伸子

七種や刃で祓ふ四海無事    恵子


最後に、参詣者には七草粥が振る舞われました。
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割箸に両手を使ふ事始    喜代子

幸先や愛宕詣でのなづな粥   恵子

塩をふる七草粥のうすみどり   紀子


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白猫の爪研いでゐる椿東風    紀子

晴天や七種粥の少し冷め    喜代子
                 
                      

                     写真・文/武井伸子
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by basyou-ninin | 2007-01-07 11:00

水を張る漬け物桶や冬支度

昨日、谷川岳が初冠雪、近くの山も雪が降りました。
冷たい風に当たりながら、朝散歩しました。
こちらは、とても寒いです。
なのに小さなショウリョウバッタは青いです。
「おいおい」と思わず声掛けてしまいました。
いよいよ冬将軍の到来です。

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                    文・写真/牧野 洋子
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by basyou-ninin | 2006-11-14 21:14

ゑのころや犬をほめられて嬉し

我が家の、寿々丸を散歩させていたら、通りがかったおじさんに、いい顔しているねえ(犬が)、いい犬だねえ、とほめられました。うんうん分かるひとには分かるのだ。寿々丸もなんとなく、褒められているのが分かるみたいで、いいささかかしこまっておりました。
毎日犬の散歩のために生きている様でもありますが私も山の中の道を散歩するのが好きで、これは唯一の私の楽しみでもあるのです。(なんと淋しい生活!)雨は雨で、かっぱを着て、犬と、雨の匂いをかぎながら歩き回ってくると、ストレス解消になり、ににんのつらい20句出しの席題句会のことも、ワスレられるのであります。
疲れすぎた頭と、運動不足には、ダイエットには、しば犬を!
尾崎じゅん木
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by basyou-ninin | 2006-10-04 21:37

渡良瀬遊水地 野焼き吟行


            渡良瀬遊水地 野焼き吟行   2013.3.17
 
渡良瀬に春を告げる行事、葦焼きが3月17日に行われた。
良質の葦を育て、害虫を駆除するために、また希少植物の生態系維持ためにも昭和30年代に始まった渡良瀬遊水地の葦焼きだが、2011年は震災直後で中止となり、2012年は福島第1原子発電所事故の影響で葦を焼いた後の放射性物質飛散の心配から取り止めとなった。
今年は国などの放射性物質の検査で安全性に問題ないとされ3年ぶりの葦焼きとなった。

渡良瀬遊水地は栃木・群馬・茨城・埼玉4県に跨っている。
遊水地の広さは山手線の内側の南半分とほぼ同じ3300ヘクタールでその半分の1500ヘクタール弱が本州最大級の葦の湿地帯である。
そして貴重な猛禽類のチョウヒやオオタカを頂点として生態系ピラミットが構成され大変貴重な場所となっている。
24年7月ラムサール条約に登録された遊水地である。
しかしながら、この渡良瀬遊水地の建設には、悲惨な歴史がある。それは明治10年の頃、足尾銅山からの鉱毒のため渡良瀬川の流域の村々では作物が枯れるという被害がでた。
被害者は抗議行動を起こした。川俣事件である。また田中正造の直訴事件等も起きている。
明治政府は、この解決のために足尾銅山の操業を止めその代わりに、毒の水を溜める「渡良瀬遊水地」の建設を行うことにしたのである。
その犠牲になったのが、強制立ち退きを余儀なくされた旧谷中村の住民であった。
住民は長年さまざまな苦労を重ねたが、結局大正6年に谷中村は名実共に滅亡したのである。
その村の跡が、「渡良瀬遊水地」なのである。
現在もこの地に谷中村遺跡として雷電神社跡、村役場跡、小学校跡、延命院墓地跡等がある。

この日天候に恵まれ、予定の時間に葦焼きが始まった。私たちが現地に着いたときは第1回目の火入れが既に行われ、遠方の葦原は、勢いよく炎を上げていた。
それにも増して黒煙の立ち上がる姿は、怪獣を思わせる様である。
思わず、唾をのみ込んだ。こんな大規模な野焼を見るのは、初めてなのである。

2回目の火入れは、私たちが見ている大土手に近い所で、野焼守りが一抱えの葦に種火を点け火入れをした。乾いた葦はパチパチと音を立て燃え上がり、大きな火柱となった。
風に煽られ、あっという間に炎は20メートル位嘗め尽くした。声も出ず、ただただ炎の先を、見詰めるばかりである。
大土手には溢れるばかりの人である。
カメラマンの姿も多く見られ、それぞれがシャッターチャンスを狙っていた。カメラマンも興奮していたのでしょうか。結構荒だった言葉を周りの人に、投げかけていたカメラマンも居たようだ。
少し下火になり、子供の何か叫ぶ声が土手の下で聞こえた。私たちも土手から下へ降りた。
少し遅れて来た友の姿が土手の上に見えた。手を振ると、友も土手から下へ降りてきた。これで全員揃った。
葦の燃えた跡は蒼黒い色と化し、白い煙がところどころに立ち上り、末黒野となっていた。煙に紛れて雲雀の声がした。目の前の柳には、既に緑色の芽がではじめていた。

消防自動車が数台来ている。葦焼きの火の消える最後まで見届けるのであろう。
葦簀農家の男衆が手に鎌を持って安堵した表情で歩いている姿にも出合った。
今年は葦焼きの面積を、例年の4割程度少なくしたが、風が強く予定した葦原より少し多く焼いたようだ。
まだ、葦原の先の方は、煙が立ち、赤い炎は見えていたが、眼前は大半が末黒野と化したので、私たちは帰る事にした。
周りに居た人達も何事もなかったような素振りで三々五々帰り始めていた。
足元に黒い虫が這っているのかと思い、足を止めた。
腰を屈めそれを見ると動かない。虫ではないとホッとした。が土手にも道にも、黒い羽のような燃え滓が散らばっていたのである。少し気味が悪かった。
土手を挟んで、遊水地の反対側は住宅街である。よく見ると、それぞれの住宅の窓はきちっと閉ざされていた。放射性物質の飛散を少しでもシャットアウトしたい住民の気持ちの現れかも知れないと、思った。
何だか体中の力が抜け、お昼も過ぎているのに空腹であることも、気にならず、タクシーに乗り込んだ。
 
栃木駅に着くとまず昼食をとった。
相談したわけでもないのに、全員ハンバーグ定食と甘いデザート。とても美味しかった。
昼食後、蔵の街まで足を伸ばした。
巴波川の船着き場から都賀舟に乗りこんだ。それぞれが菅傘を被り舟の客となる。
そう長くない川の距離を往復した。
船頭は長い棹を持ち慣れた手つきで舟を操る。
その都度、川の名前や例幣使街道のことや、川の側の蔵づくりの屋敷の話等分りやすく語ってくれた。
巴波川の片側には大きな蔵屋敷が立ち並び、それを見ながらの舟遊びは、江戸時代に遡った錯覚に襲われた。なんとも風情な気分である。
川の行く手には、残り鴨が数羽、羽繕いをしている。
川を覗き込むと、たくさんの大きな鯉が泳ぎ、人懐こく舟に寄ってきた。
船頭から鯉の餌を買い、鯉に餌を撒いた。
そして、その川面をよく見ていると黒い滓のようなものが浮いていた。船頭は葦焼きの燃え滓だと言う。びっくりした。こんな所まで風に乗って飛んできたのである。
葦の燃え滓は川ばかりでなく、道路の至る所にも落ちていた。
足元にふわふわと寄る黒い葦の滓を目で追いながら、駅舎に急いだ。

           文/牧野洋子 写真/鈴木厚子・武井伸子
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by basyou-ninin | 2003-03-17 10:00