阿仏「うたゝね」を詠む

  阿仏「うたゝね」を詠む        木津直人


彼のこころが冷めてゆく。
  ものおもふ月に階段にじみつつ

あんなに愛しあったのに。
  夢うつゝとも朝礼の鰯雲

西山の紅葉を見てきました。私は十九です。
  あくがるゝ心を止めて遠紅葉

久しぶりの彼の手紙、彼の訪問!
  帰りても秋の戦ぎのしとねかな

彼の奥様が亡くなり、もういちど彼に会う。そして、それきり。
  かのところ進入禁止秋遍路

心がこわれてゆく。
  師走にもなりぬ灯りし駅見えぬ

ある夜、私は髪をきりおとす。
  春の床のどやかなるに鋏置く

深夜、私は西の山をめざし、ひそかに門を出る。
  たゞ今も出でぬべきかは春の闇

雨が激しく降りだす。泥にまみれて、夢と現実の区別もつかない。めざす尼寺は見つからない。
  ほのぼのと春のボタンが落ちてゐて

夜明け、私は桂の里人たちに見つけられる。
「どうしたの、あなたは! 誰かから逃げて来たの? 口論をして来たの? いったいどうしてこんな雨のなかを、この山の中にやって来たの! どこから来て、どこに行こうとしているの。ああひどい姿で!」
私は答える。
「諍いも口論もしていません。ただ思うことあって深夜に出て来たのですが、雨もひどくなり山道にも迷って、来た方もわからず行く先も見えず、死ぬような気持ちがして、ここにたどりついたばかりです。どうか私を法華山寺へ連れていってください」
彼女たちは私の手を引いて歩きだす。
  松風のあらあらしきも柳絮らと

私は出家する。尼君たちは皆親切だ。朝夕の勤めを欠かさず、生きることの罪をきよめ、仏の道を歩むことを、今の私は喜びとする。それにしても私はなんと思いきったことをしたことだろう。
  男子整列もの狂をしき春の爪

それでも私の心は迷いつづける。なつかしい彼のことで――。私はこれまでのこと、つまりこの日記をひそかに書きはじめる。
  ものをのみ思ふ機械か夕霞む

何気ない用事をよそおい、彼に手紙を出してみる。やがて返ってきたのは、冷ややかな社交辞令だけ。
  十字架が雨のなごりに目借時

私は病に伏し、東山の五条に移される。そのとき偶然彼の車とすれ違う。そしてそれが最後となった。
  春服や命あやうきものに風

夏。私は恢復し、自邸に戻される。そして秋。
  十六夜の光を待てる登山小屋

私の心は虚ろ。
  棹売りのはかなく過ぎて秋の虹

私は養父のすすめに従い、遠江にむけて旅立つことになった。涙があふれる。
  くだるべき日に紅葉の鼓笛隊

洲俣(すのまた)という所。長良川の渡しで男たちが言い争っている。誰かが川に落ちる。水しぶき。何と恐ろしい、だが何とわくわくする体験だろう!
  野も山もはるばると行け秋の旅

鳴海の浦の干潟にならぶ、塩煮の釜のおもしろさ。浜名の浦のひろがり。私の心は癒されてゆく。
  大きなる川より秋の和音かな

養父の家での暮らしがはじまる。でも私の心は京の空にある。気まぐれで、そのくせ思いこむと後先もわからず飛びだして、失敗ばかりしている、こんな私のことを彼はどう思っているのだろう。
  こゝかしこ初霜おりて点眼す

乳母が重病とのしらせに、私は帰り支度をはじめる。春まで待つようにと、周囲の者たちは諭すのだが、私の決心は変わらない。やがて供の者が集められる。それにしても、私のこの厄介な性格はどうにかならないものだろうか。
  霜月や現在地なぜ表示せぬ

不破の関守が怖い目をして見ている。だがここから京は、もう遠くはないのだ。
  このたびは耳すましけり軒氷柱

比叡山の雲になつかしさがこみあげる。私は乳母のもとに駆けつける。
  燻製に雨ふりいでゝ枯野めく

私のこの日記を、いつか誰かが読むことがあるだろうか。
  そのゝちは身を朝礼の冬空に


(笠間書院版・次田香澄・渡辺静子校注『うたゝね・竹むきが記』を用い、各二十四節の冒頭か、それに近い言葉を句のなかに折りこみました。たとえば第一節は「ものおもふ事のなぐさむにはあらねども、」と始まる、その「ものおもふ」を。)

                  * * *

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「うたゝね」の作者、のちの「十六夜日記」の作者である阿仏(あぶつ・阿仏尼・安嘉門院四条)は下級貴族の娘で、女房として仕えるうちに高位の男性と関係をもち、失恋します。このとき阿仏十八~九歳(一説では三十歳前後)、鎌倉時代中期、西暦1243年前後の出来事と考えられます。

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阿仏の一族は衣笠一帯に住み、出仕先もその域内にあったと考えられます。彼女が尼寺へ向かった経路は定かではありませんが、西へ進んで嵐山で桂川を渡り、法輪寺の前を過ぎて南下、そこで桂の里人に助けられたようです。その後たどり着いた尼寺も、法華山寺、善妙寺など諸説ありますが、現在の松尾大社のあたりの寺の一つであったようです。
 とくに桂の里人との出会いはこの作品の白眉ともいえるので、原文を紹介してみます。
『これや桂の里の人ならんと見ゆるに、ただ歩みに歩みよりて、「これはなに人ぞ。あな心憂(う)。御前(まへ)は人の手をにげ出で給ふか。また口論(くちろん)などをし給ひたりけるにか。なにゆへかゝる大雨にふられて、この山なかへは出で給ひぬるぞ。いづくよりいづくをさしておはするぞ。あやし、あやし」とさへづる。なにといふ心にか、舌をたびたび鳴らして、「あないとほし、あないとほし」とくりかへし言ふぞうれしかりける。しきりに身の有様をたづぬれば、「これは人を恨むるにもあらず。また口論とかやをもせず。たゞ思ふことありて、この山の奥にたづぬべきことありて、夜ぶかく出でつれど、雨もおびたゝたしく、山路さへまどひて、来しかたもおぼえず行くさきもえしらず、死ぬべき心地さへすれば、こゝに寄りゐたる也。おなじくはそのあたりまでみち引き給ひてんや」といへば、いよいよいとほしがりて、手を引(ひ)かへてみちびく情のふかさぞ、仏の御しるべにやとまで嬉しくありがたかりける。』
「うたゝね」は源氏物語や伊勢物語などを手本とした、実験的な物語作品でもあるようですが、虚構では描きにくい、いきいきした部分が含まれるために、仮に阿仏本人による再構成があったとしても、彼女の青春の実体験が元になっていると考えられています。

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                 (地図:新詳高等地図 帝国書院1972年)
 

後半は旅のなかで阿仏が次第に元気をとりもどしてゆく様が描かれます。
「洲俣(すのまた)の渡し」は長良川を越える交通の要衝で、現在の墨俣町。本来の東海道は南の鈴鹿越えを取りますが、鎌倉中期のこの頃はこの美濃路のルートが東海道の本道に指定されていました。
 浜名湖の湖口は砂州でつながっており、阿仏はその風景を「おもしろき所なりける」と楽しんでいます。のちに戦国時代の地震と津波でこの砂州は切られ、浜名湖は海とつながります。
 彼女の目的地である養父の任地が、遠江のどこであったかは不明ですが、浜名湖を越えたあたりですから、現在の浜松市かも知れません。
 阿仏はその後還俗と再出家をし、奈良や、京都の松尾周辺の寺とかかわりを持ちながら、出会った男性との間の子を困窮のなかに育て、のち藤原為家の妻となってからは歌名をあげます。
 阿仏の墓とされるものは鎌倉と京都にあります。

(参考:田渕句美子「阿仏尼とその時代」臨川書店)
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by basyou-ninin | 2008-09-01 10:00
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