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奥吉野吟行会記


       奥吉野吟行会記   2016.2.25〜26                   
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昨日の雨が嘘のように晴れ、寒さも和らいだ2月25日、近鉄・榛原駅に岩淵代表を含め9名の「ににん」会員の顔が揃う。
私を入れて10名が今回の吟行会のメンバーだ。
宿の送迎バスで吉野の紙漉きの里へ国道370号を南下。
約30分程で吉野町に入る。
道の両側の杉は花を付け風が吹けば今にも烟るかのようである。

入野トンネルを抜けると目の前に吉野川が広がる。
U字形に曲がる川の岸に家並みがあり、「紙漉きの里」吉野町・窪垣内である。
バスを下りて集落の小高い所にある「福西和紙本舗」の工房を訪ねる。
爪先上がりの坂の途中の畑には、獣避けのネットが張られ中に案山子が取り残されている。
立ち止まり俳句手帳に句を書き込む姿が。
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工房の前庭には既に紙が砦の様に干され、冬日が白く輝いて見える。
工房6代目の福西正行さんの話によると「昔は集落の大半が紙漉きを生業としていたが、戦後は和紙の需要が激減、集落の多くが割り箸に転業、また、最近は過疎化により廃業が進み、今は6軒が伝統の紙漉き技法を受け継いでいる」と、話す。
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昔から吉野の和紙は「宇陀紙」として、高級な掛け軸、襖の表装等に重宝されており、現在では、国宝・重文等の修復に利用され注文が増えているとか。
帰路、梅が美しく咲いている家の前を通ると庭の隅に大きな釜が伏せられているのに気づいた。
多分、かつて、楮を煮た釜であろう。
紙漉きを廃業した家だと推測できる。

つぎの吟行地「国栖奏の宮」にバスを進める。
国栖奏の舞台である「浄見原神社」へは、窪垣内から5分ほど、新子の集落の外れを右折して小さいトンネルを抜けると南国栖の集落である。
バスを降りて吉野川沿いの岨路を数分歩くと小さな石の鳥居が見えてくる。
急な石段を登り鳥居を潜ると崖の上は狭いが平地があり、畳3枚程の広さの拝殿の奥の岩壁に抱かれた小さい祠が鎮座している。
これが、国栖奏を奉納される「浄見原神社」で祭神は壬申の乱に勝利し、後に明日香浄見原宮で即位した天武天皇(大海皇子)である。
国栖奏の起源は、応神天皇が吉野の宮(吉野離宮)に行幸した時に国栖人が一夜酒を献上し、歌舞を奏したと「日本書紀」に記されている。
また、壬申の乱(672年)の際、大海皇子を匿い赤腹の魚(ウグイ)赤蛙、粟飯等を捧げ国栖奏を舞ったとも。
今も毎年旧暦の1月14日に国栖奏が奉納されている。
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浄見原神社真下の吉野川は、深く瀞んだ淵となり「天皇ケ淵」と呼ばれている。
神社登り口の断崖に藪椿が咲いていたのが印象的であった。

バスに戻り、更に20分、東熊野街道を南に進むと左右の山が急に追ってくる。
吉野も一層深くに入った感じがする。川上村である。
芭蕉が、ここ「蜻蛉の滝(笈の小文ではの滝)」を訪れたのは貞享5年(1688)3月「笈の小文」の旅である。
西河の集落の奥にある「あきつの小野スポーツ公園」の小道を進むと「蜻蛉の滝」に通じる石畳と石段がある。
石段を登ると水音が激しく聞こえ数分で滝口の前に着く。
水量が豊かで轟々と落ちている。冬の滝とは思えない。
芭蕉はここで、
 ほろほろと山吹ちるか滝の音 芭蕉
と、この滝を詠んでいる。
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滝を正面から仰ぐために螺旋階段と橋が設けられており、階段を降りた橋の袂に其角の句碑が建っている。
三尺の身をにしかうのしぐれかな 其角

元禄7年(1694)9月に其角が先師芭蕉を偲び、ここを訪れた時の句である。
滝道は整備されて吉野山までのハイキングコースとなっているが、厳しい山道には変わりがない。「蜻蛉の滝」命名は雄略天皇を虻から救った蜻蛉伝説から付けられたとか。
芭蕉の句碑は、滝から1キロ程離れた「大滝」バス停前の「大滝茶屋」の広場にひっそりと建っていた。

今日、最後の吟行地「丹生川上神社上社」に向かう。
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大滝ダム建設で神社が集落西方の山の中腹に社殿を新設して移転。
平成10年(1998)の事である。
丹生川上神社は古くから祈雨、止雨の神として崇拝されており、吉野川沿いの川上村に上社、東吉野村に中社、下市町に下社と定め現在も多くの参拝者で賑わっている。
新設された上社の境内、南東の端からダム湖の底に沈んだ元宮を遥拝する事ができる。
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午後5時30分。予定通り一日の旅程が終わり宿へ到着。
夕食には、山国の宿のもてなしの料理と酒がならぶが、食後に開催する俳句会のことは忘れて杯を口に運んだ。
同室の布村さんと露天風呂へ、明日の天気を約束するがごとく星が瞬いていた。

2月26日、朝日が眩しく湖面に差す。
同室の布村さんとまずは朝風呂へ、朝食の茶粥が旨い。
これも吉野の自慢のひとつである。

予定通り2回目の句会も終わり、宿のバスで帰路に着く。
途中、重要伝統的建造物群保存地区の町大宇陀を散策、この町は宇陀紙ではなく「吉野葛」の生産の町である。各自の手にはお土産の葛製品が。
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ここで、室生寺散策と東吉野「石鼎庵」散策組に別れる。
2日間の短い旅であったが、充実した吟行会であったと自画自賛、私の至らない説明にも耳を傾けていただき感謝しています。
また機会があれば吟行会の開催をと思います。
遠方まで参加してくださった皆さんにお礼申し上げます。

かなしさはひともしごろの雪山家 石鼎
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奥吉野吟行会俳句

滝水の落つれば透きて春の鹿       岩淵喜代子
紙透いて宇陀人風に隠れけり
国栖人の影ぞろぞろと草萌ゆる
穀撒きの餅は大きく草萌ゆる

国栖奏の終り餅撒く鬨の声         宇陀草子
磐境に国栖奏の笛ぴたと止む
舞ひ終へて国栖奏の長眉白し
国栖奏の果たる宮の磐襖

漉き紙の一枚ごとに春日満つ         河邉幸行子
吉野川深き色もて水温む
漉き紙と洗濯ものと春の雲
春遅々と地酒に酔ひし宇陀郡

雪解風ダム湖の底の故郷かな        篠原明子
しなやかに簾をかへし紙漉ける
ふきのたう紙漉く音に子ら育つ
大宇陀の古き家並みや梅白し

啓蟄やダム湖に残る神社跡         武井伸子
佐保姫をのせて蛇行や吉野川
滝音に急かされ芽吹山のぼる
宇陀紙に春日閉ぢ込め寡黙なる

紙漉きや光もろとも屑掬ふ         谷原恵理子
狼は絶え伊勢道の常夜灯
橋渡る奥にまた橋雪解川
木の実植う和紙に混ざりし白き土

谷底に町閉ぢ込めて鳥雲に          辻村麻乃
紙漉きて手の甲にある光かな
春寒し谷戸に楮の匂ひして
洗濯の竿に大きな春椎茸

風光る和紙を日に干す隠れ里        浜田はるみ
犬ふぐりぽつぽつ声の良く通る
紙漉の手元より生れひかりの芽
国栖奏の舞台へ瀬音上りくる

漉き上げし紙が余寒の水落とす        佛川布村
紅梅の近づけば紅あはくなる
川の名の変はりいよいよ杉の花
いぬふぐり皇子の踏みし道の辺に

六代目ぼつたり厚き紙を漉き       牧野洋子
和紙を干す春の光を返しつつ
一言がふたことみこと藪椿
宇陀紙の葉書の角の朧かな




             文・写真 宇陀草子 
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# by basyou-ninin | 2016-02-25 10:00 | 俳句

河内音頭盆踊り

         錦糸町・河内音頭盆踊り     2014.8.27

8月も終ろうとしている27日、JR錦糸町駅・南口に降り立った。
2日間にわたる河内音頭盆踊りの初日だ。
雨をふくんだ夕空はまだ持ちこたえていた。
身の回りをうすうすと秋の気配がすり抜けていく。

吟行参加者が揃ったところで、堅川親水公園の特設会場へと動き出す。
その途端、小雨が降り始めた。会場へは徒歩五分の距離。
マルイの脇道を入る。
赤い提灯が点され、それが小雨に濡れている。
提灯が盆踊り開場への道案内だ。

ちようちんに誘はれて行く盆踊り   宮崎晩菊 

首都高速7号線高架下が盆踊り開場だ。
高架が屋根の代わりをしてくれて、雨天決行。
開場に近づくと、河内音頭が聞こえてくる。 
午後5時半開演、終演は9時だという。
すでに踊りの輪ができていて、入口とは反対方向に舞台が組まれている。
ステージの背景には提灯が積み上げられ、遠く小さく見える舞台が、まばゆく輝いている。
そこから河内音頭が拡声器で広がっていく。
盆踊りのためのスペースは、ステージに向って縦方向にぐいと伸びている。
踊りの輪を囲むように様々な屋台が並ぶ。

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立ち喰ひの耳に盆唄錦糸町   高橋寛治

踊る人がいれば、踊らない人もいる。
踊らない人たちは、舞台下で音頭取りの声に聞き入ったり、
立ち食いを楽しんだり、屋台のテーブルに張り付いていたりする。

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音頭取り歌手のごとくに唄ひけり   小関人志

蚊に食はれ眺むるだけの踊りかな     矢野 輝

大男恥ぢて踊りの輪に入らず       佛川布村
 

河内音頭は大阪府八尾市を中心に河内地方で唄われてきた盆踊唄。
8月になると、河内ではあちこちに櫓が立つという。
櫓には音頭取りと伴奏者が上り、太鼓、三味線、エレキギター、ときにはシンセサイダーなども使われる。
かつて農村地帯であった河内では、野趣に富んだ唄と踊りが、大事に伝えられてきた。
唄い継がれてきた音頭には、新たな工夫が取り込まれつつ、芸能の本来の荒々しさが息づいているといわれている。

「ええ、さあては一座の皆様へ ちょいと出ましたわたくしは お見掛け通りの若輩で ヨーホーホーイホイ ハァーイヤコラセー ドッコイセー」

音頭取りはまず、一座の皆様へ挨拶をして、それからマクラ。
その後本題に入り、物語を紡いでいく。
最後は「皆々さまの御健勝と久しき幸せを祈りながら、さようなら」となる。

錦糸町にはじめて河内音頭を招いたのは1982年、ダービー通り神社前の「銀星劇場」が初演だったという。
1985年に東京初櫓。今年、2014年は33回になる。

7時を過ぎると、人がどんどん増えてきて、舞台下で音頭に聴き入っている人たちも、隙間なく座り込んでいる。
五月家菊若の「紀ノ国屋文左衛門」、五月家一若の「瞼の母」などを、舞台下に陣取ってじっくりと聴く。
会場が混みあってくると、踊り手同士の距離も近くなってくる。隙間があまりない。
いっせいに音頭に乗って揺れながら、腰を振って踊る。
この独特の腰のひねり、揺れになんともいえない味がある。
河内音頭の踊りは、語義は不明ながら、通称「マメカチ」と言われているそうだ。
身体能力の高い踊り手は上下、前後に思い切り跳ねる。移動の所作がダイナミックだ。

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地を蹴るように跳ねて、生き生きと身体を弾ませている。
踊り手の躍動を見ていると、こちらにまでそのスイング感が伝わってきて、身体のどこかが動いてしまう。
車椅子のお婆さんの手と足が、ほんのすこしだけ動いているのを見て、有無を言わせない河内音頭の力を感じた。
踊りの輪の浮き沈みが大きなうねりとなって、錦糸町高架下をエネルギーの坩堝にする。ここにある熱気はなんだろう。
踊りの輪の大きなうねりに身を任せながら、陶然とたゆたっている気になる。

この日、踊り手の仮装がなんともおもしろかった。
AKB48のようなフリルがいっぱいついたドレスは、年配のご婦人たちがお召しになっていた。頭に光る被り物を載せたり、猫耳をつけていたり、天狗のお面をつけた男性もいた。
中世の風流を思わせる仮装である。

河内より闇連れ来たる盆踊   武井伸子

踊手のひとかたまりの鴉めく    岩淵喜代子


河内音頭に乗って、河内の闇がひたひたと、もうそこまで押し寄せて来ている気がする。
踊の輪はそれを取り込みながら、夜をうねっていく。

踊りのほとぼりの醒めない内に、駅ビルのレストランの一角で、句会。
別行動をなさった方々は、いささかきこしめし、河内音頭の夜を満喫なさったようであった。
 
踊り終へて赤提灯になだれ込む 村松 健


                 文・写真/武井 伸子
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# by basyou-ninin | 2014-08-27 18:00 | 俳句

渡良瀬遊水地 野焼き吟行

           渡良瀬遊水地 野焼き吟行   2014.3.17 

渡良瀬に春を告げる行事、葦焼きが3月17日に行われた。
良質の葦を育て、害虫を駆除するために、また希少植物の生態系維持ためにも昭和30年代に始まった渡良瀬遊水地の葦焼きだが、2011年は震災直後で中止となり、2012年は福島第1原子力発電所事故の影響で葦を焼いた後の放射性物質飛散の心配から取り止めとなった。
昨年は国などの放射性物質の検査で安全性に問題ないとされ3年ぶりの葦焼きとなった。

渡良瀬遊水地は栃木・群馬・茨城・埼玉4県に跨っている。遊水地の広さは山手線の内側の南半分とほぼ同じ3300ヘクタールでその半分の1500ヘクタール弱が本州最大級の葦の湿地帯である。
貴重な猛禽類のチョウヒやオオタカを頂点として生態系ピラミットが構成され大変貴重な場所となっている。
平成24年7月ラムサール条約に登録された遊水地である。
しかしながら、この渡良瀬遊水地の建設には、悲惨な歴史がある。
明治10年の頃、足尾銅山からの鉱毒のため渡良瀬川の流域の村々では作物が枯れるという被害がでた。
被害者は抗議行動を起こした。川俣事件である。
また田中正造の直訴事件等も起きている。
明治政府は、この解決のために足尾銅山の操業を止めその代わりに、毒の水を溜める「渡良瀬遊水地」の建設を行うことにしたのである。
その犠牲になったのが、強制立ち退きを余儀なくされた旧谷中村の住民であった。
住民は長年さまざまな苦労を重ねたが、結局大正6年に谷中村は名実共に滅亡したのである。
その村の跡が、「渡良瀬遊水地」なのである。
現在もこの地に谷中村遺跡として雷電神社跡、村役場跡、小学校跡、延命院墓地跡等がある。

この日は天候に恵まれ、予定の時間に葦焼きが始まった。
私たちが現地に着いたときは第1回目の火入れが既に行われ、遠方の葦原は、勢いよく炎を上げていた。
それにも増して黒煙の立ち上がる姿は、怪獣を思わせる様である。思わず、唾をのみ込んだ。
こんな大規模な野焼を見るのは、初めてなのである。

草焼きの煙の中に人走る    宮本郁江

はるばると来て葭焼の煙の中    武井伸子
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2回目の火入れは、私たちが見ている大土手に近い所で、野焼守りが一抱えの葦に種火を点け火入れをした。
乾いた葦はパチパチと音を立て燃え上がり、大きな火柱となった。
風に煽られ、あっという間に炎は20メートル位嘗め尽くした。
声も出ず、ただただ炎の先を、見詰めるばかりである。

腰に鎌を差して野火守走りけり      佐々木靖子

石垣に草焼きの火の躓きぬ          牧野洋子

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大土手には溢れるばかりの人である。
カメラマンの姿も多く見られ、それぞれがシャッターチャンスを狙っていた。
カメラマンも興奮していたのでしょうか。結構荒だった言葉を周りの人に、投げかけていたカメラマンも居たようだ。
少し下火になり、子供の何か叫ぶ声が土手の下で聞こえた。
私たちも土手から下へ降りた。
少し遅れて来た友の姿が土手の上に見えた。
手を振ると、友も土手から下へ降りてきた。これで全員揃った。
葦の燃えた跡は蒼黒い色と化し、白い煙がところどころに立ち上り、末黒野となっていた。
煙に紛れて雲雀の声がした。目の前の柳には、既に緑色の芽がではじめていた。
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末黒野の立木にとまる烏二羽     中島外男

消防自動車が数台来ている。
葦焼きの火の消える最後まで見届けるのであろう。
葦簀農家の男衆が手に鎌を持って安堵した表情で歩いている姿にも出合った。
今年は葦焼きの面積を、例年の4割程度少なくしたが、風が強く予定した葦原より少し多く焼いたようだ。
まだ、葦原の先の方は、煙が立ち、赤い炎は見えていたが、眼前は大半が末黒野と化したので、私たちは帰る事にした。
周りに居た人達も何事もなかったような素振りで三々五々帰り始めていた。

揚雲雀野火の終わりを告げにけり    高田まさ江

野火終りさみしき顔となりてゐし    あべあつこ
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足元に黒い虫が這っているのかと思い、足を止めた。腰を屈めそれを見ると動かない。虫ではないとホッとした。
が土手にも道にも、黒い羽のような燃え滓が散らばっていたのである。少し気味が悪かった。
土手を挟んで、遊水地の反対側は住宅街である。よく見ると、それぞれの住宅の窓はきちっと閉ざされていた。放射性物質の飛散を少しでもシャットアウトしたい住民の気持ちの現れかも知れないと、思った。
何だか体中の力が抜け、お昼も過ぎているのに空腹であることも、気にならず、タクシーに乗り込んだ。

栃木駅に着くとまず昼食をとった。
相談したわけでもないのに、全員ハンバーグ定食と甘いデザート。とても美味しかった。
昼食後、蔵の街まで足を伸ばした。
巴波川の船着き場から都賀舟に乗りこんだ。
それぞれが菅傘を被り舟の客となる。
そう長くない川の距離を往復した。
船頭は長い棹を持ち慣れた手つきで舟を操る。
その都度、川の名前や例幣使街道のことや、川の側の蔵づくりの屋敷の話等分りやすく語ってくれた。
巴波川の片側には大きな蔵屋敷が立ち並び、それを見ながらの舟遊びは、江戸時代に遡った錯覚に襲われた。なんとも風情な気分である。

巴波川野焼の芥流れ着く        及川希子

羽のごと遠き野焼の灰が降る     岩淵喜代子
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川の行く手には、残り鴨が数羽、羽繕いをしている。
川を覗き込むと、たくさんの大きな鯉が泳ぎ、人懐こく舟に寄ってきた。
船頭から鯉の餌を買い、鯉に餌を撒いた。
その川面をよく見ていると黒い滓のようなものが浮いていた、船頭は葦焼きの燃え滓だと言う。びっくりした。こんな所まで風に乗って飛んできたのである。

葦の燃え滓は川ばかりでなく、道路の至る所にも落ちていた。
足元にふわふわと寄る黒い葦の滓を目で追いながら、駅舎に急いだ。

            
           文/牧野洋子 写真/あべあつこ・武井伸子
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# by basyou-ninin | 2014-03-17 10:00 | 俳句

佃島念仏踊り

平成二十五年七月十五日
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フーム! 「念仏踊り」「盆踊り」「盂蘭盆」など辞書を引いてみる。盂蘭盆は梵語で逆さ吊りの苦しみの意、イランの語系で霊魂の意、などとあり興味津々。
 七月の佃念仏踊り吟行、地元中央区の住人として自転車にて参加、以下そのレポートです。
 七月十五日午後六時  集合場所 佃小橋
(月島駅から徒歩十分)、時間に余裕を持って着いたので少し写真を撮る。この橋の付近の景色は独特の印象があって脳裡にしっかり焼き付いているような感じがある。澱んだ堀の水、朽ちて半分沈んだ木の舟、沈んでも不思議のなさそうな木造船、FRPの白い小さな釣り船などが舫ってある。
 隅田川から東に引き入れた水路が住吉神社の裏を越えて直角に南に折れ赤い佃小橋の下を通り少し先で堀留となる。赤いこの佃小橋を渡った回数は二十回を下らないと思う。それにしても岩淵先生と武井伸子さんから話を聞くまでは佃の盆踊りについてまったく知らず実に灯台下暗しであった。
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 午後六時の空はまだまだ明るく人気も僅か、何時もと変わった様子は見られない。釣り糸を垂れている人、浴衣がけでタバコをくゆらす人子供が二三、さて吟行のメンバーがそろったのは六時十五分過ぎ、蛮愚句会から盆踊り見物にみえるお二人はすでにどこかで一杯やっているようで自然と別行動となった。
 ところで佃の盆踊りですが面白い歴史を持ち簡単に紹介しますと、まず佃島の由来は摂津(大阪)佃村の漁師が家康より隅田川河口の干潟を拝領し埋め立てて、同時に佃村の住吉神社(現、田蓑神社)より分霊し佃住吉神社を建立した。摂津佃村の人々は浄土真宗西本願寺派の門徒であったので江戸の西本願寺別院とも縁が深く1657年の大火で消失した別院の替地として与えられた八丁堀海岸を埋め立て(現、築地本願寺の場所)寺院の復興再建に尽力します。
 そして盆踊りを試み江戸市中を廻って志を受け本願寺に奉納していましたが1831年町奉行所より市中勧化が禁じられたため佃島の網干場(現在の場所)で7月13日から15日に開かれることとなった。
隅田河畔には川面から訪れる無縁仏迎えるために精霊棚が設けられ礼拝の人が絶えない。
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 さて盆踊りが始まるまで時間があるので近所をぶらぶらと探索することに。まず波除神社へ、ここには丸い力石があって若い衆が力競べした名残である。
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 そばのおそろしく狭い路地を入って行くと地蔵尊があり入り口を大銀杏が半分塞ぐように立っている、この銀杏を抱くような形で狭い社が作られていて鮨詰めの住宅の一つ分に相当する大きさで周囲の住宅に溶け込んでしまっている。不思議、シュールな感じかな。それから住吉神社に参拝し、さて句会は席の取れるお店もないので佃小橋脇のベンチで慌ただしく。おにぎりなんぞ食べながら。
 すでに子供達の盆踊りが始まっていて何ともかわいらしい。
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 路地涼し大銀杏抱く地蔵尊      浜田はるみ
 
 盆唄のビルの間に間にはづみけり   河辺行幸子
 
 涼風や高層の灯のうるみをり     村瀬八千代


そろそろ大人の踊りが始まる時刻だ盆唄と大太鼓の音が風に流れて来る。

 盆踊り老いも若きもゆかたがけ    宮崎大
 
 上げ潮や更けてふくるる踊の輪    岩淵喜代子
 
 夏太鼓佃の踊りくねくねと      高橋寛治

 暮れなづむ小さき島の踊りかな    武井伸子

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                    高橋寛治 (記)
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# by basyou-ninin | 2013-07-15 10:00 | 吟行

愛宕権現七草火焚き神事

吟行燦燦  第二五回
愛宕神社 七草火焚き神事
平成二十五年一月七日

 一月七日は七草の日である。しかも今年は初句会が予定されているので、午前中を愛宕神社の吟行に充てることにした。愛宕神社は防火を司る火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神として、七福神の大黒天、弁財天、猿田彦が祀られ、ビル群に囲まれているが静けさを保っている。神谷町の駅を出て神社に向かっているとメールが入った。
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「今何処にいるの」
「そっちに向かって歩いている」
「大変よ。大勢の人が行列を作っている。急いで」

「出世の階段」として有名な八八段の男坂を登るつもりだったが、急遽エレベータで愛宕山に上がった。そこにはもう長蛇の列が出来ており境内を埋めていた。目の前には四隅に竹が立てられ、注連飾りが下がり、結界が作られてどんど焼きの準備がしてあった。
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雀らに七日の真顔ありにけり  岩淵喜代子

猫の頭撫でて七草日和かな   牧野 洋子

注連飾り出世階段見下ろして  中田芽茶


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十一時になると社殿の中で七草神事が始まったが人が多くてとても入りきれない。閉めた硝子戸の向こうから、俎板の上にのせた七草をすりこぎとしゃもじでストトントンと叩く音と、「鳥追い歌」がところどころ聞こえた。はっきりと聞えたのは最後の「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に」の部分だけだった。続いてその年の吉凶を占う国見の舞いが披露されたのだが、ほとんど見られなかった。

七草火焚何か唄つているらしき  武井伸子

巫女舞のこゑの幼き松の内   河邉幸行子

初春や国見の舞ひの朱の衣    浜岡紀子


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 そのあと神主が刀を持って積まれたお札や達磨などをお祓いする。我々も頭を下げ祓って戴く。それと同時に七草粥のお振舞いも始まるのである。

左義長や火にも水にも神在す   芹沢 芹

燃え盛るどんどの中の達磨衆   高橋寛治

お火焚をぐるりと囲む手足かな  川村研治

繋ぐ手のなきに輪となり福達磨 浜田はるみ

日の本の瑞穂の国の薺粥     島 雅子

人日や池に向かひて粥すすり 尾崎じゅん木


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七草粥のパワーを戴いて身も心も温もり句会場へと急いだ。 
   
                              (写真・記事 浜岡紀子)
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# by basyou-ninin | 2013-01-10 11:04 | 吟行

香港吟行記 (2012年11月24-26日)

 東京から皆さんをお迎えし香港での吟行が実現した。昨年十一月下旬のことである。季節感に乏しい香港ではあるが晩秋から初冬といった頃合である。雨が降ったり止んだりするあいにくの空模様となった。
 初日の晩、早速上海蟹を食べに出掛ける。何よりも上海蟹の季節に合わせて香港訪問の日程を組まれた皆さんであった。うまいと評判の店に着き、先ずは十文字に縛られた生きたままの蟹を見せてもらう。青黒く泥のような色をしている。それを調理すると鮮やかな蟹の色に変わる。柿のような色である。赤々と蒸された蟹の味噌を啜り、手足をばらばらにして肉をほじる。

  縛られし上海蟹は青黒く  小塩正子
  円卓や上海蟹を食べつくし  服部さやか
  指先に上海蟹の香が残り  中崎啓祐
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 食後は二階建のオープン・トップ・バスで夜の街へ。目抜き通り(彌敦道、ネーザン・ロード)に張り出した大きな看板をくぐるようにしてバスは街中を進み、路地を抜け、女人街に着く。女性向けを中心に洋服、バッグ、アクセサリーといったファッション用品や日用雑貨の露店が所狭し並ぶ。値段はあってないようなもの。さてどこまで値切れるか、値切りながらの買い物がまた楽しい。

  看板の上に看板冬の街  岡本恵子
  偽時計売る男たつ冬の街  中崎啓祐
  冬の夜の値切れば負かる女人街  新木孝介
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 翌朝は小雨の中、路地裏の粥屋へ連れ立つ。壁にはぺたぺたと手書きのメニュー。中には怪しい日本語に訳されたものもある。各自好みの具を選び大振りの椀でそれぞれの粥をすする。

  朝粥や海を隠くせし冬の霧  岩淵喜代子
  路地裏の粥待つ朝の時雨かな  新木孝介

 
 朝粥で腹拵えの後は午前中は九龍の下町を散策する予定。先ずは花墟街(フラワー・マーケット)を抜け園圃街の雀鳥花園(バード・ガーデン)へ向かう。花墟街では歩道にも車道にもさまざまな花を並べて売る。季節柄、ポインセチアの赤が目を引く。
 
  火の中に火の芯見ゆるポインセチア  岩淵喜代子
 
 雀鳥花園はあいにくの雨でひとはまばら。晴れた日には自慢の鳥を籠に入れ、おじさんたちが鳥談義に熱くなり、時には鳴合せなどもする。奥へ行けば鳥籠を積み上げて目白や鴬を売り、鳥籠や餌入れといった小物を売る店が並ぶ。鳥の餌も売る。生餌として蝗の類がネットに詰められて売られている。そのうごめく光景は人目を引き異様である。

  男らの手には鳥籠秋時雨  服部さやか
  軒下に鳥籠吊す時雨かな  服部さやか
 

 そして通称「金魚街」(通菜街)。金魚や熱帯魚を売る専門店が軒を連ねる一角である。小さな金魚はビニール袋に入れられて店先に並ぶ。中国語では「金魚」と「金余」の発音は同じで、金魚は財運に良いとされる。

  路地裏で金魚売らるる冬ぬくし  新木孝介
  金魚屋の路地に飛び交ふ広東語  服部さやか
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 地下鉄でヴィクトリア・ハーバーをくぐり香港島へ渡る。昼食は香港ならではの飲茶。湯気を立てたワゴンが客席を廻り、好みの蒸篭を選ぶ昔ながらのスタイルの店だ。大きな丸テーブルを囲んでの和やかなひと時となった。

  湯気立てし飲茶のワゴン呼び止めて  小塩正子
  霜月や飲茶の店の湯気まみれ  岩淵喜代子
  飲茶して雨粒の跳ね見つめおり  兄部千達

 
 昼食後、香港島南部の淺水灣(レパルス・ベイ)で海の守り神である天后を祀る天后廟(ティンハウミュウ)を訪れ、赤柱(スタンレー)のマーケットをひやかす。

  天后(ティンハウ)の海図広げむ霧の島  岡本恵子
  赤柱(スタンレー)まで淋しき虻を連れてゆく  岩淵喜代子
  冬雀赤柱(スタンレー)の市の人だかり  岡本恵子

 
 そして思い切って西貢(サイクン)へ足を延ばす。少々遠いのだが、ぜひ皆さんに新鮮な海鮮料理を楽しんでいただきたい。海岸沿いの海鮮街には生簀や水槽が並び、好みの食材を選び、好みの調理法で料理してもらうのだ。大きな蝦蛄をにんにく風味に揚げたものが人気あったようだ。

  甲乙もなくて海鼠は桶の中  岩淵喜代子
  海鮮をいさましく食う冬港  兄部千達
  冬めきて大きな蝦蛄を分け合へり  新木孝介
  秋燈の外で皿拭く嫗かな  岡本恵子
 
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 夕食を終え、とっぷりと日が暮れた。さて、ヴィクトリア・ピークへ行こう。摩天楼の立ち並ぶ香港自慢の夜景を堪能しよう。しかし、その日は一日雨であった。ピークに着けば霧も深い。時折あたり一面まっ白となり何も見えなくなる。それでも雨が小降りとなった折、霧の切れ間に夜景を垣間見る。いつもとちがい妖しげに幻想的ともいえる夜景が滲んでいた。

  冬霧は香港島をすべて消し 兄部千達
  鉛筆の如きビル群霧流る  小塩正子
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 夜が深まり、天星小輪(スター・フェリー)で家路に着く。百年以上も庶民の足として香港島と九龍を往来してきたフェリーである。十分足らずの船旅であるが、海抜ゼロから見上げる夜景もまた乙なものである。潮風が疲れた体に心地良い。

  秋風やスター・フェリーの灯が揺れる  新木孝介
  海沿いを歩いて宿へ暮の秋  服部さやか
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新木孝介記
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# by basyou-ninin | 2012-11-24 10:00 | 吟行

須賀川 松明あかし

              須賀川 松明あかし  2012.11.10~11

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                                    (須賀川観光協会HPより)
11月10日(土)  松明あかし

福島県須賀川市の「松明あかし」は毎年11月10日に行われる。
場所は須賀川市の翠ヶ丘公園・五老山。
伊達政宗が須賀川城を攻め落とした際、城も市中も猛火に包まれた。
その折亡くなった人々を弔う、420年続いてきたといわれる火の伝統行事だ。

しぐれ傘松明あかしに交はし合ふ    河邉幸行子
綿虫も入れて二人や道の奥       浜田はるみ   

下の写真は点火前の夕闇に包まれた松明。 
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この日は毎年、雨、強風、霙、雪などという、荒れた天候に見舞われる、と地元の人たちが口を揃えて言う。
今年も小雨が降り続き、ときに激しい雨になった。
雨に抗するかのように、長さ10メートル、重さ3トンもある大松明をはじめ、姫松明、本松明などが25本、さらに仕掛け松明などが次々に点火された。

小夜時雨松明太鼓の響くなり       河邉幸行子
山茶花や松明太鼓の撥捌き       牧野洋子 

特設ステージでは、力強い松明太鼓が打ち鳴らされる。
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松明は地元の商店街、中学、高校などの団体が、それぞれ競うように作る。
竹で骨組みを作り、阿武隈川でとれた萱を詰める。
昨年は大震災の影響で、全国から萱を集めたそうだ。
今年は厳正な検査を経て、地元の萱を詰めた。
それぞれの団体が松明通りを練り歩き、五老山へ運んでくる。
松明はクレーンで吊り上げられ、地面に立てるだけでも、たっぷり時間がかかる。

時雨るるや大松明の立ちあがる     河邉幸行子
松明も人も棒立ち冬の雨         牧野洋子
松明の一つ一つに冬の雨         牧野洋子
しぐるるや大松明のすくと立ち      武井伸子
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夕闇が次第に濃くなり、すっかり夜になった頃。
白装束の男たちが、竹の棒の先に布を巻き、灯油をしみこませた点火棒を掲げ、松明に立て掛けられた梯子を登っていく。そして、点火。
その光景は、天と地の間を、火の玉をもって統べるようで、ただもう圧倒されて見上げた。

初冬の天へ噴き出す火の柱      岩淵喜代子
松明の火柱となり冬に入る       河邉幸行子
短日や白き袴の影動く          牧野洋子  
松明に立ちて少年凛と冬        浜田はるみ
火に闇に染まず真冬の白袴      浜田はるみ
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火が燃えていく様は実に壮大。戦国の劫火に思いが至る。
燃え盛る松明の火照りが、見物する人の顔を赤々と照らし出した。

地に生えて終の鬼火となりにけり      浜田はるみ
松明の火柱となり冬に入る          河邉幸行子
骨片のごとき火の粉や松明あかし     武井伸子
松明あかし炎ひらりとはぐれゆく      武井伸子
松明の火柱崩れ冬に入る          牧野洋子 
松明あかし火照りの及ぶところまで    岩淵喜代子
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中学生、高校生の応援合戦もこの行事には欠かせない。
高三の応援団が、校歌や応援歌を歌った後に、「燃えろ、松明。松明、燃えろ」と炎への応援をしていた。
その声は卒業をひかえた自分たちへの、さらには震災に見舞われた須賀川の町への応援歌のようだった。

松明あかし影となりたる男たち      武井伸子
火柱の火照りのそばへ懐手        河邉幸行子
松明あかし祈りを空へ舞ひ上げて    浜田はるみ
松明あかし火の梟になれば果つ     岩淵喜代子
 
11月11日 芭蕉の足跡を訪ねて

翌日は、芭蕉が7泊8日滞在した須賀川の町を歩いた。
まずは芭蕉記念館へ。
芭蕉の句碑拓本、年表、「芭蕉翁須賀川に宿るところの図 」(渡辺光徳作)や「芭蕉翁三十六俳人像並双幅」(狩野永耕作)、碧梧桐の掛軸などの作品が展示されていた。
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次いで、おくのほそ道に、「此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有」と記されている、僧可伸の庵跡。
さらに芭蕉の句、「世の人の見つけぬ花や軒の栗」から命名した「軒の栗庭園」へ。ここは小公園になっていて、芭蕉、曾良、等躬の小さな石像があった。
風流の初やおくの田植うた」の句碑がある十念寺、芭蕉が宿をとった相楽等躬の菩提寺である長松院などを訪れた。
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いずれの寺も3・11の被害で本堂などが修復中だという。  
たまたま出会った地元の人は、「修復費に1億円以上もかかる」と、ためいき混じりに語ってくれた。 

町には廃屋もちらほら見受けられた。
営業を停止しているらしい飲食店、美容院などがあった。
そのうちのひとつ、寿司屋だった店の前面を覆っていたヒヨドリジョウゴの赤い実が美しかった。
前日の「松明あかし」のエネルギーを秘めつつ、町は冬日を浴びて静まり返っていた。

みちのくの鵯上戸実となりぬ       岩淵喜代子
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昼食のあとは、町から少し離れた「芹沢の滝」、旧陸羽海道の「一里塚」を廻り、阿武隈川を越えて「乙字ヶ滝」へ。等躬宅を辞した芭蕉が、郡山への途中に立ち寄った滝である。
川を渡るとき、朱塗りの美しい橋が見えた。
「本来はあの橋を行くのですが、震災以後、まだ復旧されていなくて通れないんです」とタクシーの運転手さん。
「風評被害もあるし、保障の対象からは外れた地域なんです」とも、教えてくれた。

乙字ヶ滝は前日の雨で水嵩が増し、白濁しつつ流れていた。
ここにも芭蕉句碑、「さみだれの滝降りうつむ水かさ哉」が建っていた。
芭蕉が見たのも雨のあとの乙字ヶ滝。
眼前に同じ景があると思うと、時空を超えて、ほんのわずか芭蕉に近づけた気がした。

冬の滝白き焔のごと流れ      武井伸子
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芭蕉の足跡を訪ねる1日だけの旅は、はからずも土地が被った震災のあとを目にする旅にもなった。
様々な思いと感慨を抱きつつ、芭蕉が7泊8日滞在した須賀川を立ち去った。

梟が啼く乗り遅れたる駅に        岩淵喜代子 


                     文・写真/武井伸子  
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# by basyou-ninin | 2012-11-10 14:00

北川崎虫追い行事

 
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                   2012年7月24日  北川崎虫追い行事

 フーム! 「虫追い」「虫送り」、魅力的な言葉ですねぇ。虫(無視)出来ないですなぁ。それに「実盛送り」などという言葉もある。これは辞書にすぐ出て来る言葉なので調べてみると、実盛のわら人形を作り村中暴れさせて最後に村境で焼き捨てる行事のこと、何かワクワクしますね。
 斎藤 実盛(さいとう さねもり)、保元の乱、平治の乱においては義朝に従い
奮戦する。その後平氏に仕え、木曾義仲追討のため出陣するが、味方が総崩れとなる中、老齢の身を押し白髪を黒く染めて奮戦し、ついに討ち取られた。
 実盛が乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えがある。そのため、稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれる。

 そんなわけで七月二十四日の北川崎虫追いの行事に「ににん」吟行の一員として参加させていてだきました。当日午後三時、東武伊勢崎線「せんげんだい」駅改札に集合。参加者は私を含め四人。さて四人そろったところで駅前のカフェに入って打ち合わせ。私は新人なので今回の吟行の報告を受け持つことになりましたが、無論、俳文調というわけにはね。タクシーで川崎神社に着いたのは四時過ぎ、まだ人もまばらでのんびり子供たちが太鼓を叩いて遊んでいました。

「虫追い」という行事をどのように捉えるか、大雑把に「エントロピーの解消」を目的とした祭りの一つとして考えてみたいのですが。エントロピーとは日々の生活のなかで溜まってしまうゴミとか澱のようなもので、そのために淀んでしまう暮らしを定期的にクリアする、リセットするための装置としての農耕儀礼、新しい時間を導入し生活を活性化させる農民の知恵。「実盛送り」に観られるようにスケープゴードを仕立てそこに害虫、疫病、さらには村に溜まっている怨念などを背負わせ一気に村の外へ送り出す。さて、お盆の行事などもそうですが、「お迎え」とか「送り」とか言う言葉が象徴するように内と外、その境界である村境、村境への曖昧で特殊な意識のあり方、いわゆる周縁、周縁性の持つ意味が私の頭の中に疑問符付きで浮上してきました。
 
虫追い行事の役員の方に尋ねたところ旧西方村を中心としたここの虫追い行事では、七つの字境に笹の葉の束を供える習慣が残っているとのこと。
 
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さて、しだいに人が集まって参りました。子供たちもたくさん集まりました。まだ空は明るいのですが六時半頃に行事が始まり氏子代表の方が拝礼、簡単な挨拶、紙コップでお神酒が振舞われるといよいよ松明に火が移されて松明の行列がおよそ二キロの道筋をゆっくり進み始めました。麦わらを竹の芯の周りに巻いた長さ一メートルから二メートルほどの松明を掲げた子供たちは楽しそうです。
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子の担ぐ虫追いの火の揺れこぼる     武井伸子

虫追いの火の行列の草に浮き      河邊幸行子




 次第に闇が迫って来て松明の列が生き生きと揺れながら進んで行きます。川崎神社の周辺は道路沿いに住宅が建ち並びしばらくしてやっと田畑が展望出来る道に差掛かりました。
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白鷺は首先き立てて虫送り     岩淵喜代子

虫送り麦藁焼け落ち闇に散る     高橋寛治     


 虫追いの役員の方の話では松明を作るのにおよそ三反の麦畑が必要だがそれもしだいに難しくなりつつあると言うことです。道の両側はすでに田んぼに変わり広々とした闇の中を進む松明の列は火の持つ焼き尽くし浄化する、神聖な力に就いて古代から人が抱いて来た畏敬の念を思い起こすに足る現代ではむしろ稀な機会ではないかなと私の目に写っていました。
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 わらの燃え尽きてポタッ、ポタッ、と地面に落ち煙る道を浄火の行列について行くとやがて松明の燃え残りなど集め火の手が一段と高く上がっている終点に着きました。

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ざっくばらん、淡々とした神事であって私は好感を持ちました。
                      (高橋寛治 写真 文)
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# by basyou-ninin | 2012-07-24 11:23

上毛高原吟行

                                    2012-6-28

 空が明るく笑い、まぶしいほどの緑に覆われた上毛高原駅に東京から一時間余りで着いた。蛍が出るのにはまだ間があるので、まずガラス工房に案内してもらった。冷房の利いた室内に入ると硬質な美しさとともに一点一点手作りされた温かみのようなものが伝わってくる。この山間にある小さなガラス美術館に展示されている製品の数々はどれをとっても魅力的だ。紀元前十五世紀のメソポタミアのトンボ玉。棒の先に材料をまいて作っていたので中心に穴があり糸を通してネックレスにしている。地中にあって土と同化し銀化現象を起こしたローマのガラスは霧がかかったような神秘的な色合いだ。ルネ・ラリックの花瓶はボーンチャイナのような乳白色をしている。先ほど見てきた工房の様子が目に浮かぶ。形を変えて世に出たいと願っているガラスの塊を新生の泉から汲みだし、息を吹きこみ一瞬のうちに手なずけて彩りも鮮やかに形作っていく。くるくる回る棒の先の魔法のような技に暫らく見とれていたのだった。工房は建物の二階にあり、一年を通して開けっ放しにしてある。外の日差しは強いが心地よい風が吹き抜ける。真夏はダクトから冷風が降りてきて時々体を冷やすのだそうだが、今日はそんな必要はなさそうだ。

万緑や火の坩堝からガラス汲む 岩淵喜代子
南風吹くメソポタミアのトンボ玉 武井伸子
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 次に訪れたのは上毛高原駅から車で七分ほどのところにある名胡桃城址。利根川と赤谷川がV字型に合流しているこのあたりは、越後に通じる三国街道、利根川沿いの清水峠道、鳥居峠を越えて信濃へ通じる道があり群雄割拠の戦国時代には軍事的に重要視されていた。城の西側の三国街道を上杉謙信は十数回も出陣し北条の支配下にあったこのあたり一帯を手中にしている。
謙信の死後は再び北条の手に渡り、さらに武田勝頼の命を受けた真田昌幸の軍勢の襲撃を受けたりとたびたびの小競り合いが続いていた。秀吉の裁定で、利根川の西側を真田領、東側を北条領としたが、これに不服な北条方の猪俣邦憲の不法占拠が原因となり、これに怒った秀吉の小田原攻めへと発展してゆく。北条方の敗北により戦国時代は終わりを告げるのだが、そのきっかけを作ったのがこの小さな山城であるのもこの地に立って初めて知った。
刈られた夏草の真ん中に一筋の道が三郭、二郭、本郭さらにささ郭と続く。各郭の間は谷の様にえぐれ手すりが渡してある。クローバーや芥子の花、蛍袋、薊などが転々と咲いていた。本郭には徳富蘇峰揮毫の「名胡桃城址之碑」があり杉木立が大きな影を落としていた。
 ささ郭からの眺めが素晴らしい。切り立った崖の下には利根川が流れ、それにそうように上越線が走っている。みなかみの街並みがおもちゃのように見える。 

山城の白つめ草を跨ぐなり   河邉幸行子
けしの花真つ赤にゆれて古戦場 浜田はるみ
薊咲く二の丸跡に風を踏み   浜岡 紀子

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聴いたこともない蛙の大合唱に迎えられ思わず頬が緩む。地元の方のご厚意で蛍の里のすぐそばまで車で送ってもらった矢先だった。蛍を見るのが目的なのだがこの蛙たちとも お目見えしたいと思ったがそんなゆとりはない。あたりには夕やみがうっすらと迫り暮れのこる田に半月が落ちていた。水音を耳が捕えたが流れの上には十薬がびっしりと生え、真っ白い花が目に鮮やかに飛び込んできた。向こう側は丈の高い水草が生えている。誰かの「あっホタル」という声を皮切りに見ると蛍の光が点滅している。そのうちにあちこちに飛び始め嬉しさがこみあげてくる。地元の方が数人集まっている所を挨拶を交わしながら通り抜ける。ここら辺りから登りが少しきつくなり山道へ入って行った。気がつけばもうすっかり暗くなっており、ちょっと距離を置くと前を行く人の姿が見えなくなる。息がはずむが置いて行かれないように必死で歩く。

声だけを頼りに歩く蛍狩       牧野 洋子
きりもなく闇湧き出づる蛍かな   武井 伸子
土に落ちれば土を照らして恋蛍  岩淵喜代子

 左下に池なのか水が光っていた。やっと一番高い所に着いたらしくその後はゆっくりと下り坂になった。頭上を覆っていた木々もなくふと見上げると半月が雲間を出たり入ったりしている。かなり平らな所に着いた。ここが蛍を見る一番のポイントなのだ。いるいる。こんなに沢山の蛍を見たのは初めてだった。何の明りか柵の向こう側の杉の木立が白くぼうっと見え、そこへ消えていくように、また其処から湧いてくるように蛍が乱舞している。下には流れがあるらしくその辺りにも沢山の蛍火が点滅している。息を呑んで見とれた。
 静かな時間が流れていた。じっとこの青の世界に浸っているとだんだんと息苦しくなってきた。

闇のなかにそこだけ煌々とした駅に着く。我々のほかは乗り降りする人のいない駅舎に列車が静かに滑り込んできた。車内にもほとんど人はいない。蛍の幻影を引きずっていたせいか無言のままそれぞれの家路についたのだった。        
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                         (浜岡紀子 写真・記)        
            
  
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# by basyou-ninin | 2012-06-29 10:01 | 吟行

安芸宮島・尾道・鞆の浦

         安芸宮島・尾道・鞆の浦  2011.5.21~23

21日 1日目 宮島

前日までの天気予報は雨だったが、この日は曇り。
西へ西へ、車窓に青田が続き、列車は東京を離れてゆく。
新幹線を広島で降り、在来線で宮島口へ。
フェリーで宮島に渡る。
旅館に落ち着いてから、まずは弥山へロープウェイで上る。
瀬戸内の島々が穏やかな海に点在している。
海風にきたえられているのか、島の揚羽蝶が目にもとまらぬ速さで飛んでいた。

夕方は遊船に乗る。
海から見る大鳥居が島を守っているようだった。
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遊船の隅に神棚共に揺れ    岩淵喜代子

声かけるたび遠ざかる袋角   武井伸子
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22日 2日目 尾道 

朝は厳島神社へ。
朱塗りの回廊がどこから見ても鮮やかだ。
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潮が満ちてきている。
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潮が引いた砂地を平家蟹がいっせいに、影のように動く。
砂穴を出たり入ったり。
回廊から眺めていると、飽きない。
白鷺が、少しずつ満ちてくる潮の中に立ち尽くしていた。
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思いがけず、「蘭陵王」の奉納舞を見ることができた。
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笙、篳篥、笛、太鼓。ときどきうぐいすが合奏する。
向うに大鳥居が見える。
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白鷺のやうに神官ひるがへり   上田禎子

夏うぐひす背筋通つてくるやうな   浜岡紀子
 

午後は尾道へ。
駅前の尾道ラーメンがおいしかった。
尾道は坂と石段の町。
まずはロープウェイで千光寺へ。
山は椎の花盛りだった。

下りはひたすら歩いてゆく。
千光寺山中腹の志賀直哉旧居に立ち寄る。
大正元年、東京を離れた直哉が、約1年間移り住んだ家。
棟割長屋の6畳、3畳、台所という質素な造り。
ここで『暗夜行路』の草稿が練られたという。
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文学記念室にも立ち寄り、寺めぐりをするように石段を降りてゆく。
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緑陰のただ中に、椅子とテーブルを置いた喫茶店を見つけて、ほっと一息つく。
敷地には白い鉄線や蔓薔薇が咲いていた。
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石段のひとつに蝸牛を発見。
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真昼間の殻の硬さよ蝸牛 長嶺千晶

二階井戸など、生活上の工夫の跡が今でも残っている坂道を下る。
途中、猫と出会う。
これはことに人懐っこい猫だった。
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平地に戻ってきて、商店街の入口にある林芙美子像に出会う。
旅鞄と日傘を傍らに、坐りこんでいる芙美子だ。
林芙美子は家族で各地を転々としたのち、大正5年に尾道に移り住んだ。
学業を終え上京するまでを、この坂と石段の町で過ごしたのだ。
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23日 3日目 鞆の浦 

尾道から福山へ出る。
在来線は青葉のなかを抜けてゆく。
バスで鞆の浦へ。
鞆の浦は小さな漁港。常夜燈が見える。
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往時を偲ぶ町並は小雨にしっとりと濡れていた。
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保命酒の元醸造元・太田家へ立ち寄ったり、鯛料理をいただいたり。
坂本龍馬にゆかりの「いろは丸展示館」にも立ち寄り、
鞆の浦という情趣たっぷりの町を堪能した。

鞆の浦をあとにし、バスで福山へ戻る。
福山から新幹線は東へ、東へ。
2泊3日の安芸への旅が終わった。

                 文・写真/武井伸子
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# by basyou-ninin | 2011-05-21 10:00